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11.272015
聖武天皇「一握りの土を運ぶことでもいい東大寺大仏造りに参加してほしい」【仏教って何?その3】

[:ja]
たとえ草のひと枝
一握りの土を運ぶことでも良い
大仏造りに参加してほしい
743年 聖武天皇の大仏造営の詔
この世は、飢饉、地震、疫病と乱れ、民は租庸調の税に苦しめられていました。ロクに食べるものもない。善人でも、子供が腹を空かしていると犯罪を起こしてでも食料を・・と考えても不思議ではない。そんな混乱の世の中だとそうぞうできます。おまけに聖武天皇は4度遷都を行う。なぜ?なぜ?なぜなんだ。。。?
仏教が伝来538年し200年が流れても、仏教は庶民のものではなかった
聖武天皇(701ー756)
7歳で父と死別、母の宮子は心的障害
714年 14歳で皇太子へ
724年 24歳で即位
740年 40歳河内の知識寺(庶民の寺)で東大寺建立を思い立つ
741年 41歳で国分寺建立の詔 鎮護国家をめざす
743年 43歳で墾田永年私財法、東大寺建立の発願
749年 娘(孝謙天皇)へ譲位
752年 東大寺大仏の開眼法要 (鑑真来日)
756年 56歳で崩御
聖武天皇のは7歳で父と死別、母の宮子も心的障害、母と会ったのは30年以上立ってから。その半生は孤独との戦いだったと言いえます。藤原氏は、皇后は皇族出身というルールを逸脱し、藤原不比等(中臣鎌足の息子)の娘、光明子を聖武天皇の皇后にします。※母の宮子も藤原不比等の娘という複雑な関係です。
世の中は藤原氏が勢力を拡大していましたが、度重なる飢饉や地震で民は疲弊していました。旧皇族の血筋 VS 藤原氏という構図もあり世は乱れていました。
そんな中、聖武天皇は鎮護国家を目指し、仏教で国を治めることをはじめます。
仏教が浸透していく一大事業があります。
聖武天応は救いを求めたのは、仏教。高さ15mという盧舎那大仏をつくること。
不吉な事がおきるのは、天皇の責任、不徳と言われる時代。息子も2歳でなくなり、天然痘の流行(人口の1/3がなくなる)で、藤原四兄弟が他界。長屋王を滅ぼしたタタリともとれる現象。民の視線をそらすために遷都を繰り返したのか、土着の権力を剥がしに大ばくちに出たのか???
平城京から、
恭仁京(くにきょう):現京都府加茂町
紫香楽宮(しがらききょう):滋賀県甲賀市
難波宮(なにわきょう)
紫香楽宮(しがらききょう):滋賀県甲賀市
と遷都を繰り返した行動は、どんだけ引っ越しが好きなんか?奇行ともとられますが、天武天皇の壬申の乱のルートと同じであり謎めいています。しかし、最近では唐をまねた複都体制だという説が有力となってきました。NHK BS「聖武天皇 未完の遷都計画~最新発掘が明かした大国家構想~」は興味深かったです。740年12月恭仁京(平城京北10km)は250㎡ある宮殿が発掘され、思いつきの遷都ではなかった。恭仁京(くにきょう)は洛陽をまね木津川沿いに陣取る都、貴族を全員移動を命じ、その勢力をはぎ取る。743年東大寺建立の発願。744年難波宮へ遷都(外貿の都)、745年紫香楽宮へ遷都、仏都とし盧舎那仏を建立し陽郊外の龍門の石窟を真似た。これはあまりにも、壮大なプロジェクトだが、混乱をまねき半年足らずで平城宮に戻ることとなります。
この遷都は民の関心を、不吉なものから、別なものに持っていこうとしたのか。東大寺もそうであったのか?話が、自分でも混乱してきた。どうやってその三都を維持するのか・・・歴史ではそんな時期に地震が起きて、聖武天応は平城京へ戻ることを決断した。お金もなかったんでしょう・・。
そこで話は東大寺建立に大きく関わった行基菩薩へ。行基菩薩は百済からの渡来人の末裔行基。堺市付近で生まれた。
行基(668-749)
15歳で僧に、道昭(どうしょう)などから仏教の教えを受ける
人々のために池を掘り、道を開き、橋をかけ各地をまわる
優婆塞(うばそく)という非公認の僧数千人がともにあった。その数は1万人以上とも言われる。710年 平城京遷都 過酷な労働を強いられた人に手をさしのべる
717年 50歳 行基の民間伝道を僧尼令違反として禁圧(上の事由により警戒された)
723年 三世一身法が発布される(開墾した土地は、3世代まで自分の土地に → 行基チーム拡大する)
724年 57歳 聖武天皇即位
731年 64歳 再び僧になる。(61歳以上の優婆塞と55歳以上の優婆夷の得度を許した→ 行基の力を利用する方向に舵をとった)
745年 聖武天皇は大僧正に任じる
749年 81歳 他界する
行基が立てた渡来人パワーで立てた土塔です。高さ8.6m、一辺は53m、6万枚の瓦が使用され、いかに大規模な土木工事だったかわかります。
渡来系の技術力
発掘された、瓦には参加した人の名前が書かれています。
20年前くらいに法隆寺に行ったときに、改修だったと思うのですが、瓦を1000円で買って後ろに娘が名前を書いたのを思い出します。
行基の信者は寺院や仏像の建立や維持に働き、事業に寄進しました。これを知識といいます。この知識という力を、聖武天皇は取り込んだわけです。
古代史ドラマスペシャル 大仏開眼(かいげん)をアーカイブで見ていたのですが都造りを頼まれたときに、行基は「人は己のためには働く。人は理屈だけでは動かない」と断ります。そこで聖武天皇は、仏門に入るため修行をし現場では工事をしている優婆塞(うばそく)750名に僧侶の身分を与えるのですが・・鎮護国家を目指す日本の国づくりの歴史はダイナミックでしたたかで面白いものです。
行基の元には人が集まりました。人々のために池を掘り、道を開き、橋をかけ各地をまわる。優婆塞(うばそく)という非公認の僧数千人がともにあった。その数は1万人以上とも言わてます。
聖武天皇は、61歳以上の優婆塞と55歳以上の優婆夷の得度を許し、味方に取り込みます。
そして庶民に呼びかけます。
聖武天皇の大仏造りは、民にとって他人事から自分事に変わります。
大仏建立は、仏教が民の身近なものになり、浸透していくきっかけとなりました、国家事業として民の無償の労働力が注がれたものは、他にはないのではないでしょうか。そして行基菩薩というカリスマの存在はどんだけ大きかったでしょう。
鎮護国家を目指した、聖武天皇 大仏建立を目指し、741年 「国分寺建立の詔」
聖武天皇というのは、底が知れません。少し、本を買ってみたので何か合点がいけばBLOGに書きますね。
お遍路を10カ寺ほど廻っていて、聖武天皇の勅令で行基菩薩が開基したというお寺が1/3はあるという事実が胸を突きます
1998年に世界遺産に登録 東大寺の大仏は高さ15メートル、重さ380トン、銅製の仏像としては世界一の大きさ
関連リンク
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たとえ草のひと枝
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大仏造りに参加してほしい
743年 聖武天皇の大仏造営の詔
この世は、飢饉、地震、疫病と乱れ、民は租庸調の税に苦しめられていました。ロクに食べるものもない。善人でも、子供が腹を空かしていると犯罪を起こしてでも食料を・・と考えても不思議ではない。そんな混乱の世の中だとそうぞうできます。おまけに聖武天皇は4度遷都を行う。なぜ?なぜ?なぜなんだ。。。?
仏教が伝来538年し200年が流れても、仏教は庶民のものではなかった
聖武天皇(701ー756)
7歳で父と死別、母の宮子は心的障害
714年 14歳で皇太子へ
724年 24歳で即位
740年 40歳河内の知識寺(庶民の寺)で東大寺建立を思い立つ
741年 41歳で国分寺建立の詔 鎮護国家をめざす
743年 43歳で墾田永年私財法、東大寺建立の発願
749年 娘(孝謙天皇)へ譲位
752年 東大寺大仏の開眼法要 (鑑真来日)
756年 56歳で崩御
聖武天皇のは7歳で父と死別、母の宮子も心的障害、母と会ったのは30年以上立ってから。その半生は孤独との戦いだったと言いえます。藤原氏は、皇后は皇族出身というルールを逸脱し、藤原不比等(中臣鎌足の息子)の娘、光明子を聖武天皇の皇后にします。※母の宮子も藤原不比等の娘という複雑な関係です。
世の中は藤原氏が勢力を拡大していましたが、度重なる飢饉や地震で民は疲弊していました。旧皇族の血筋 VS 藤原氏という構図もあり世は乱れていました。
そんな中、聖武天皇は鎮護国家を目指し、仏教で国を治めることをはじめます。
仏教が浸透していく一大事業があります。
聖武天応は救いを求めたのは、仏教。高さ15mという盧舎那大仏をつくること。
不吉な事がおきるのは、天皇の責任、不徳と言われる時代。息子も2歳でなくなり、天然痘の流行(人口の1/3がなくなる)で、藤原四兄弟が他界。長屋王を滅ぼしたタタリともとれる現象。民の視線をそらすために遷都を繰り返したのか、土着の権力を剥がしに大ばくちに出たのか???
平城京から、
恭仁京(くにきょう):現京都府加茂町
紫香楽宮(しがらききょう):滋賀県甲賀市
難波宮(なにわきょう)
紫香楽宮(しがらききょう):滋賀県甲賀市
と遷都を繰り返した行動は、どんだけ引っ越しが好きなんか?奇行ともとられますが、天武天皇の壬申の乱のルートと同じであり謎めいています。しかし、最近では唐をまねた複都体制だという説が有力となってきました。NHK BS「聖武天皇 未完の遷都計画~最新発掘が明かした大国家構想~」は興味深かったです。740年12月恭仁京(平城京北10km)は250㎡ある宮殿が発掘され、思いつきの遷都ではなかった。恭仁京(くにきょう)は洛陽をまね木津川沿いに陣取る都、貴族を全員移動を命じ、その勢力をはぎ取る。743年東大寺建立の発願。744年難波宮へ遷都(外貿の都)、745年紫香楽宮へ遷都、仏都とし盧舎那仏を建立し陽郊外の龍門の石窟を真似た。これはあまりにも、壮大なプロジェクトだが、混乱をまねき半年足らずで平城宮に戻ることとなります。
この遷都は民の関心を、不吉なものから、別なものに持っていこうとしたのか。東大寺もそうであったのか?話が、自分でも混乱してきた。どうやってその三都を維持するのか・・・歴史ではそんな時期に地震が起きて、聖武天応は平城京へ戻ることを決断した。お金もなかったんでしょう・・。
そこで話は東大寺建立に大きく関わった行基菩薩へ。行基菩薩は百済からの渡来人の末裔行基。堺市付近で生まれた。
行基(668-749)
15歳で僧に、道昭(どうしょう)などから仏教の教えを受ける
人々のために池を掘り、道を開き、橋をかけ各地をまわる
優婆塞(うばそく)という非公認の僧数千人がともにあった。その数は1万人以上とも言われる。710年 平城京遷都 過酷な労働を強いられた人に手をさしのべる
717年 50歳 行基の民間伝道を僧尼令違反として禁圧(上の事由により警戒された)
723年 三世一身法が発布される(開墾した土地は、3世代まで自分の土地に → 行基チーム拡大する)
724年 57歳 聖武天皇即位
731年 64歳 再び僧になる。(61歳以上の優婆塞と55歳以上の優婆夷の得度を許した→ 行基の力を利用する方向に舵をとった)
745年 聖武天皇は大僧正に任じる
749年 81歳 他界する
行基が立てた渡来人パワーで立てた土塔です。高さ8.6m、一辺は53m、6万枚の瓦が使用され、いかに大規模な土木工事だったかわかります。
渡来系の技術力
発掘された、瓦には参加した人の名前が書かれています。
20年前くらいに法隆寺に行ったときに、改修だったと思うのですが、瓦を1000円で買って後ろに娘が名前を書いたのを思い出します。
行基の信者は寺院や仏像の建立や維持に働き、事業に寄進しました。これを知識といいます。この知識という力を、聖武天皇は取り込んだわけです。
古代史ドラマスペシャル 大仏開眼(かいげん)をアーカイブで見ていたのですが都造りを頼まれたときに、行基は「人は己のためには働く。人は理屈だけでは動かない」と断ります。そこで聖武天皇は、仏門に入るため修行をし現場では工事をしている優婆塞(うばそく)750名に僧侶の身分を与えるのですが・・鎮護国家を目指す日本の国づくりの歴史はダイナミックでしたたかで面白いものです。
行基の元には人が集まりました。人々のために池を掘り、道を開き、橋をかけ各地をまわる。優婆塞(うばそく)という非公認の僧数千人がともにあった。その数は1万人以上とも言わてます。
聖武天皇は、61歳以上の優婆塞と55歳以上の優婆夷の得度を許し、味方に取り込みます。
そして庶民に呼びかけます。
聖武天皇の大仏造りは、民にとって他人事から自分事に変わります。
大仏建立は、仏教が民の身近なものになり、浸透していくきっかけとなりました、国家事業として民の無償の労働力が注がれたものは、他にはないのではないでしょうか。そして行基菩薩というカリスマの存在はどんだけ大きかったでしょう。
鎮護国家を目指した、聖武天皇 大仏建立を目指し、741年 「国分寺建立の詔」
聖武天皇というのは、底が知れません。少し、本を買ってみたので何か合点がいけばBLOGに書きますね。
お遍路を10カ寺ほど廻っていて、聖武天皇の勅令で行基菩薩が開基したというお寺が1/3はあるという事実が胸を突きます
1998年に世界遺産に登録 東大寺の大仏は高さ15メートル、重さ380トン、銅製の仏像としては世界一の大きさ
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- こんにちは、四国愛媛在住でITの会社を生業としています。元旅行マンなので世界遺産に登録候補になっている四国八十八カ所を廻ることとしました。いつか時間ができたら歩き遍路も挑戦予定ですが、今回はバスツアーで廻ります。笑顔をお届けできたらうれしいです。(^o^)
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