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2.72016
四十三番札所 明石寺(めいせきじ) 昔、お遍路さんに掃除、食事作法など厳しい行を課したお寺 #43 meisekiji

宇和町というのは、愛媛の米づくりの穀倉地帯にございます。
この街はシーボルトの娘イネがいて、高野長英がいて、二宮敬作がいて医学・蘭学の遺伝子を残し、宇和島藩で軍艦をつくった村田蔵六もいて、明治時代には「開明学校」もあり民度が高い。卯之町の街並みを見ながら、司馬遼太郎先生が卯之町のことを書いている一説を思い出す。
「南予」という僻遠の地で
あたらしい学問の花がひらくには、それなりの経済の裏打ちが必要であったろう。藩が一冊二十両、三十両という洋書を長崎や江戸で購入させ、早い時期には高野長英、村田蔵六などの蘭学家を遠くから招聘し、その他、理化学や医学の器機、器材を購入するなど、新学問の育成というのは大変物入なものであった。この藩の財政が農業のみに依存せず、小藩なりの規模で殖産興業と商品経済に力を入れていたことをその裏側の実績として見のがすことはできない。幸いこの卯之町という商人町が江戸末期の商家の家並みをのこしている。この一角に立つだけでも、宇和島藩の当時の実力が想像できるのではないか。
司馬遼太郎 街道を行く
その卯之町から3kmの所に明石寺がございます。その卯之町の歴史の源はここに流れているかも知れません、昔、お遍路さんに掃除、食事作法など厳しい行を課したお寺というのは、伊予の血液のようなものを流していたでしょう。
本堂の隣のこの建物は何でしょう、宿坊?いやーそれにしてはちょっと違うような気もしますが・・。
鎌倉時代になってから再び荒れ果てた伽藍の修復に当たったのは、源頼朝である。建久5年(1194)、頼朝は命の恩人である池禅尼の菩提を弔って阿弥陀如来像を奉納、また経塚をきずいて、山号の現光山を「源光山」に改めた。以来、武士の帰依があつく、室町時代には領主・西園寺家の祈願所として、また江戸時代には宇和島藩主・伊達家の祈願所となり、末寺は70余寺を数えたと伝えられる。
頼朝といえば観音信仰であり、しあわせ観音がこの場所にもございます。「頼朝建立三大寺」といえば鶴岡八幡宮、永福寺、これに勝長寿院(しょうちょうじゅいん)。歴史上初めての武士による政権をつくる過程で、戦いの歴史の中でなくなった人の供養を忘れず、全国にこの世の平和を祈ったのでしょうか。源頼朝の母は熱田神宮宮司さんの娘というのもなにか、うなずけます。
お線香三本は、現在、過去、未来。そんな人生を浄化させるように線香を立てる。お線香は真ん中から、外側へ・・。うーん綺麗だ。
第43番札所 源光山 円手院 明石寺
げんこうざん えんじゅいん めいせきじ
宗 派: 天台寺門宗
本 尊: 千手観世音菩薩
開 基: 円手院正澄
創 建: 六世紀前半
真 言: おん ばざらたらま きり そわか
住 所: 〒797-0007 愛媛県西予市宇和町明石201
電 話: 0894-62-0032
駐車場: 普通200台・終日・無料
宿 坊: なし
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- ライター
- こんにちは、四国愛媛在住でITの会社を生業としています。元旅行マンなので世界遺産に登録候補になっている四国八十八カ所を廻ることとしました。いつか時間ができたら歩き遍路も挑戦予定ですが、今回はバスツアーで廻ります。笑顔をお届けできたらうれしいです。(^o^)
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