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3.62016
三十五番札所 清滝寺(きよたきじ) バスからタクシーに乗り換えて文旦街道をあがっていくと美しい薬師如来像が #35Kiyotakiji

三十五番札所 清滝寺(きよたきじ) バスからタクシーに乗り換えて文旦街道
途中、土を掘って文旦を埋めて、ムシロをかけているのを発見。昔からのスタイルなんでしょうね、こののんびり感がお遍路なんでしょうね、文旦が1個500円位するんですが、ここでは帰りの道で1個100円で売ってました。ご接待価格なんだと思います。こういう、ほっこりする一瞬が、このたびの楽しさでもあります。
土佐市の北部。醫王山の中腹にあるが、ここは「土佐和紙」「手すき障子紙」で知られる高知県の紙どころ。その源をたどると弘法大師と因縁浅からぬ霊場であることがわかる。「みつまた」をさらし、和紙を漉く重要な水の源泉として、信仰の厚い札所である。
縁起によると、養老7年に行基菩薩が行脚していたところ、この地で霊気を感得して薬師如来像を彫造した。これを本尊として堂舎を建て、「影山密院・繹木寺」と名づけて開山したのが初めと伝えられている。弘法大師が訪ねたのは弘仁年間(810〜24)のころ。本堂から300mほど上の岩上に壇を築き、五穀豊穣を祈願して閼伽井権現と龍王権現に一七日の修法をした。満願の日に金剛杖で壇を突くと、岩上から清水が湧き出て鏡のような池になったという。そこで山号や院号、寺名を現在のように改め、霊場とした。
この水は、麓の田畑を潤すことはもとより、「みつまた」をさらし、紙を漉くうえで重宝され、やがては土佐和紙産業をおこすことにも貢献している。
寺伝では、平城天皇(在位806〜09)の第三皇子が弘法大師の夢のお告げで出家し、真如と名のった。真如はこの寺を訪ね、息災増益を祈願して、逆修の五輪塔を建立、後に入唐している。大師十大弟子の1人である。また、江戸時代には土佐藩主の帰依が厚く、厄除け祈願のために寺領数百石の寄進を受けるなど、七堂伽藍を備え、末寺10数ヶ寺をもつ土佐路の大寺であった。厄除け祈願の名刹で、そのシンボルが本堂の屋根より高い大きな薬師如来像である。
紙、蝋(ろう)、塩という三泊は藩の財政を支えることができる商品。和紙の産地であったようでコウゾ、ミツマタ、そして清滝寺と呼ばれるくらいですから、水にも恵まれてたんでしょうね。長州は、7代目毛利重就が、この紙、蝋(ろう)、塩という三泊のビジネスで撫育金(ぶいくきん)を貯めていて、いわゆる特別会計、平たく言えば裏金みたいなモノで、その資金をため込んでいたのでいたので武器を買えたんですよね。余談ですが長州は、それに室積・中関(防府)・伊崎(下関)の三つの港を開いて、商取引をした。※あの高杉晋作を支えた下関の商人白石正一郎は、その下関で廻船問屋を営み莫大な財を成した。商人でありながら晋作の奇兵隊に入隊。(晋作の愛人も助けていた。)
この場所の歴史までは調べてないけど、ここも名産品の和紙産業が栄え、清滝寺も栄えたのではないでしょうか。(^O^)
干支恵方盤であります。「恵方」とは、歳徳神(としとく神)の神(正月の神)のいる方向だそうです、その年の万事が吉の方角を指し示すそうです。
15mの薬師如来像です。中に入れます(^O^)
第35番札所 醫王山 鏡池院 清滝寺
いおうざん きょうちいん きよたきじ
宗 派: 真言宗豊山派
本 尊: 厄除薬師如来
開 基: 行基菩薩
創 建: 養老7年(723)
真 言: おん ころころ せんだり
まとうぎ そわか
住 所: 〒781-1104
高知県土佐市高岡町丁568-1
電 話: 088-852-0316
駐車場: なし(普通20台境内への乗り入れ可)
(マイクロバス、大型車は山道のため通行不可)
宿 坊: なし
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- ライター
- こんにちは、四国愛媛在住でITの会社を生業としています。元旅行マンなので世界遺産に登録候補になっている四国八十八カ所を廻ることとしました。いつか時間ができたら歩き遍路も挑戦予定ですが、今回はバスツアーで廻ります。笑顔をお届けできたらうれしいです。(^o^)
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