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11.192016
五十九番札所 国分寺(こくぶんじ)この地域は伊予文化発祥の地 #59 Kokubunji

五十九番札所 国分寺
国分寺は聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院(723年)
聖武天皇は行基菩薩に命じて、鎮護国家の為に四国お遍路にたくさんのお寺を建立しています。どんぐらいでしょう・・・3割はあるでしょうか。すみません数えてはいません。
※参考: 806年・・空海(弘法大師)が唐より帰り、真言宗をひらく
645年・・大化の改新で天皇が土地持ちになり、班田収授法で口分田を与えます。(天智天皇)
675年・・壬申の乱 天智天皇の弟の大海人皇子(天武天皇)と天智天皇の子の大友皇子との間で皇位継承問題
※継承予定の太子大友皇子が負け、天智天皇の弟の大海人皇子が天武天皇へ710年・・平城京(元明天応)
古事記、日本書紀、三世一身法(723年)723年・・聖武天皇即位
国分寺、国分尼寺(723年)
墾田永年私財法(743年)→荘園の発達752年・・東大寺の大仏ができる(行基菩薩の活躍)
鑑真来日、万葉集794年・・平安京遷都(桓武天皇)
804年・・空海・最澄が遣唐使で唐へ、最澄は(桓武天皇サポート)
805年・・最澄が唐より帰り、天台宗(桓武天皇サポート)
806年・・空海(弘法大師)が唐より帰り、真言宗を開く(嵯峨天皇サポート)
伊予国分寺。伊予の国府があったところで、この地域は伊予文化発祥の地ともいえる。往時の国分寺はいまの寺から150mほど東にあった。東塔跡とみられる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史蹟とされている。礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60mほどで、豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の昔をしのばせ、その面影をいまに残している。
国分寺は天平13年、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。第3世住職・智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如(?〜862?)も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納められている。大師堂
その後の伊予国分寺は、悲運な災禍の歴史に見舞われる。まず、天慶2年(939)の「藤原純友の乱」により灰燼に帰した。次に、元暦元年(1184)源平合戦の戦火による焼失。3度目は南北朝時代の貞治3年(1364)、讃岐・細川頼之の兵火によって焼かれ、さらに4度目は長宗我部元親の「天正の兵火」にかかり、堂塔を焼失している。相次ぐ罹災で寺は荒廃、元禄2年(1689)の寂本著『四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しく建つのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。
幸い寺には、古瓦をはじめ『国分寺文書』『大般若経』など数多い文化財が保存されている。
四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しつのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。
第59番札所 金光山 最勝院 国分寺
こんこうざん さいしょういん こくぶんじ
宗 派: 真言律宗
本 尊: 薬師瑠璃光如来
開 基: 行基菩薩
創 建: 天平13年(741)
真 言: おん ころころ せんだり
まとうぎ そわか
住 所: 〒799-1533 愛媛県今治市国分4-1-33
電 話: 0898-48-0533
駐車場: 普通10台(200円) マイクロバス(500円)大型3台(1,000円)
午前7時〜午後5時
宿 坊: なし
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- こんにちは、四国愛媛在住でITの会社を生業としています。元旅行マンなので世界遺産に登録候補になっている四国八十八カ所を廻ることとしました。いつか時間ができたら歩き遍路も挑戦予定ですが、今回はバスツアーで廻ります。笑顔をお届けできたらうれしいです。(^o^)
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