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11.192016
五十五番札所 南光坊(なんこうぼう)四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけ #55 Nankobo

お遍路バスが境内に駐車場があり便利すぎることが恐縮です。
本堂(東向き)と大師堂(西向き)がお互いを見つめ合うような位置にございます。このような配置はお遍路では他にはなかったような気がします。
縁起によると、「航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深くかかわる歴史を有する」とあります。
海事の歴史キーワードが「塩」?と思われるかもしれませんが、これは今治の海に関わる歴史、さらには文化を語る上で欠かせないもの。12世紀初頭の平安時代、瀬戸内の島々では塩づくりが盛んに行われていました。現在でも大三島には製塩工場があり、今治の産物として国内に知られていますよね。この頃、島々でつくられた塩を各地へ運ぶため、海運が発達しました。
時代は進み江戸時代になると、困窮していた松山藩の財政を潤した塩田がありました。どの地域だと思いますか?今でも海運の町として知られる波止浜・波方地区です。安価で良質の波止浜の塩は日本各地で評判を得て、各地から入港する千石船(塩買船)で賑わい、「伊予の小長崎」と呼ばれる有名な港町になったのです。交易が盛んになってくると、船の修理や建造が必要になってきます。すると船大工が各地に育つようになり、同時に防波堤の工事などの港湾整備も行われてきたのです。今でもこの地域は、多くの造船所や海運会社が集まる今治屈指の海のまちですね。(今治市HP)
紙、蝋(ろう)、塩という三泊は藩の財政を支えることができる商品と言われますが、常にバックグランウンドに人の生活との密接な関係がありますね。長州があれだけ幕末で活躍できたのも、紙、蝋(ろう)、塩で撫育金(ぶいくきん)を貯めていたからで、藩主というのは、「儲けた金を何に使うのか」考えてたのでしょうね。
四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけである。正式には光明寺金剛院南光坊という。今治市の中心街にあるが起源は古く、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深くかかわる歴史を有する。
縁起によると、大宝3年、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697?707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれる。これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法され、霊場に定められた。
のち、伊予全土におよんだ「天正の兵火」により、社殿・伽藍はことごとく焼失したが、南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。慶長5年(1600)には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、祭祀料を奉納している。
さらに時代がさがり、明治初年の廃仏毀釈では本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像、観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷座し、別宮大山祇神社と明確に分離した。
太平洋戦争最末期の昭和20年8月、空襲により大師堂と金比羅堂を残して罹災した。現在の本堂は昭和56年秋、薬師堂は平成3年春に、山門は同10年に再建されている。
第55番札所 別宮山 金剛院 南光坊
べっくざん こんごういん なんこうぼう
宗 派: 真言宗御室派
本 尊: 大通智勝如来
開 基: 行基菩薩
創 建: 大宝3年(703)
真 言: なむ だいつうちしょう ぶつ
住 所: 〒794-0026 愛媛県今治市別宮町3丁目1番地
電 話: 0898-22-2916
駐車場: 普通20台・マイクロバス2台・大型1台・終日・無料
宿 坊: なし
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- ライター
- こんにちは、四国愛媛在住でITの会社を生業としています。元旅行マンなので世界遺産に登録候補になっている四国八十八カ所を廻ることとしました。いつか時間ができたら歩き遍路も挑戦予定ですが、今回はバスツアーで廻ります。笑顔をお届けできたらうれしいです。(^o^)
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